【横浜カルバリーチャペル】 天の窓
     
2023年4月16日

「十字架の無私道(ぶしどう)」

以前、文藝春秋に北海道日本ハムファイターズ栗山監督の「野球は無私道(武士道)」という記事が載っていた。先月、決勝でUSAに勝利しWBCチャンピオンに輝いた「侍Japan」の栗山監督である。その武士道とは、「私をなくし、己を殺して、人の為に生きよ」という「無私道」であるという。

この道(生き方)は、「私が道である」(ヨハネ14:6)と言われたイエス様の「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」という道に通じるものがある。

「自分を捨てる」とは自分の当然の権利や特権を放棄することであって、キリストは、天も、自分が神である事も放棄して人となり、十字架の上で己の命まで捨てて、自らの死をもって私達に命を与えてくださった。

今回のWBC侍Japanは、Teamの勝利の為に己を犠牲にして皆戦った。誰よりもホームランを打ちたいし打てる二刀流大谷選手が己を殺してバントをしたのには世界が驚いた。前評判の実力はUSAの方が上であったが、この「無私道」こそが侍Japanを勝利へと導いたのではないだろうか。

世界で最も知られる聖書の一節、ヨハネ3:16「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。この「賜わる」という言葉は、「ディドーミ」(捨てる・放棄する)という語であるのだから、私達もこの道、十字架というまことの「無私道」に生きる、いえ死ぬ、まことのチャンピオン「侍Jesus(ジーザス)」になろうではないか。