【横浜カルバリーチャペル】 天の窓
     
2022年8月21日

「命の砂時計」

今日の週報から表紙デザインが新しくなった。これを見て、最近好評のYCCafeカウンターのコーヒーだと思われた方もあった。それは多分、コーヒーの飲み過ぎである。

私は小さい頃、砂時計の不思議に心惹かれたことがある。今思えば、時という目に見えず触れることのできないものを、全く質の違う「砂」がなぜ刻むことができるのか?という単純な不思議さであろうか。実は今もよくわかっておらず、砂時計のミステリーな魅力は今も続いていると言えよう。

砂時計とは砂の一粒一粒が落ちて行く速度で時間を計る訳であるが、その一粒一粒は固体であるはずなのに、まるでサイフォンのコーヒーが落ちて行く如く、どうしても液体にしか見えないのである。しかし、やがて全て流れ落ちれば、それはまた固体に戻る。正しいかどうかわからないが、動いている時は液体で、止まったら固体、それが砂時計の時を刻む不思議のひとつなのであろうか。

学生時代、山岳部及びスキー部であった私であるが、実はなぜ水のように流れる雪崩で人が死ぬのか不思議に思っていた。雪の粒の塊である雪崩も流れている時は水(液体)のようであるが、その動きが止まった瞬時、それは一瞬にして固体と化し、もはや泳ぐどころか巨大な物体の下に埋められる事となる。

私達が生きるこの「時」も、砂時計や雪崩と似ているような気がしてならない。今は液体のように流れ、自分の意志と力で泳げていても、それがやがて止まった時にはすべてが一瞬にして変わる。もはや止まった「時」の重さの下で泳ぐことも動くこともできず、死が私のすべてを支配する。そんな私達にとって、今年の聖句「事は成就した。私はアルファでありオメガである。初めであり終わりである。私は渇く者に命の水の泉からただで飲ませる」と約束された主の新しい命の流れは何という救いであろうか。時の砂が流れ落ちる時も、やがて止まった時も、この御方が時をも支配するアルファでありオメガである!私の砂が尽きる時、主の新たな命に生きることができるのだから、聖霊の流れの中にこの身を委ね、いつもいつまでも感謝と喜びのうちに生きようではないか!