【横浜カルバリーチャペル】 天の窓
     
2021年12月5日

「Jesus Wept ヨハネ11:35」

父が「お母さんがかわいそう」と泣き崩れた。天への凱旋だから泣かないでいい、と言おうとした私の心も崩れた。愛するラザロの墓の前で、人目をはばからず声を出して泣いた方は、唯一泣く必要のない命の主/復活の主なるイエスキリストであった。新約聖書に約70回も記された「憐み」という言葉。それは「はらわたに突き刺した棒をかき回す」という意味である。私達の主はその「憐みの神」であって、私達の痛み悲しみをその身に負われただけでなく、今も、愛する我らの為なら、十字架という棒に生身打ち付けられても下りる事なく、私に代わって痛み苦しみ悲しまれる御方である。

私が覚えている最初の母の想い出は、母が聖書のストーリーを話してくれた事である。なぜそれを今でも鮮明に覚えているのか。幼子の魂に主が母を通して刻んで下さった神の恵みの筆跡でありましょう。驚くべき事は、母はその頃信仰を持っていた訳ではなく、多分、恵泉女学校時代に聞いた聖書の話を思い出して、幼き我が子に話したのだと。しかし、それであっても神のなさる事は余りに素晴らしく偉大で、半世紀後、母はよく分らずに話したその息子の手で洗礼を受け、その息子の手による塗油の祈りでこの地上の生涯を閉じるとは、母も私も誰も想像すらできない神が刻まれる恵みの筆跡です。

永遠の命を信じ復活を信じる牧師であっても、愛する者を失う事は、耐えがたい痛み悲しみであり、このはらわたに棒が突き刺さっているのです。なぜ母をもっと大切に愛せなかったのか。「母がかわいそう」である。私と共に痛み、私と共に泣かれるその主の御腕の中に母が今ある事、これに勝る慰めがありましょうか。命の主/復活の主を魂底より褒めたたえます!ハレルヤ!!