【横浜カルバリーチャペル】 天の窓
     
2019年11月3日

「 麦と葡萄の奇跡 」

懐かしい同級生のメッセージは特別であった。献身に導かれ家を勘当され、常にバイトをしながら必死に学んだ神学生時代。やがてカナダに宣教師として出ると伝えると、彼は「なぜだ?君は日本に必要だ」と真剣に説得してくれた。そんな信仰の友である菊池師は、いつも私の為に祈り、励まし、支えてくれた。35 年ぶりに彼しか知らない裏話をバラされてしまったが、プロポーズの言葉を除いても、彼がなければ家内との結婚もなかったと思う。成田での別れは辛かったが、20 年後再び帰国すると、真っ先に説教を聞きに大和教会を訪ねてくれた。そんな優秀なPK(Pastor`s Kids 牧師の子)である彼も、牧会に悩み鬱に苦しんだ。いいや、だからこそ彼の言葉は魂の深みに届き、人々の人生を変えるのである。良い友を持つ事は、まことに生涯の宝である。

「なるほど!聖書と考古学」セミナーでは、今迄聞いた事がない聖書の真理が発掘され、心が弾みまた騒いだ。「なぜ、イエスがこの地方に生まれたのに、戦争が絶えないのですか」という質問に、「それはキリストがここに生まれたのに、ではなく、キリストはそんな私達の戦争という地の真中に来てくださった(来てくださる)御方なのです」と説明してくださった。

ヨルダン川は海抜-200m から-400m を流れる川であって、最も低い所を流れる為、汲み上げる事ができず役に立たない川であると。しかし、主は世界で最も低く、最も役にたたない、泥で濁ったこのヨルダン川で洗礼を受けられた。それは、主が世界で最も低く、役に立たず、心汚れた者の、そんな心の真中に来られる方である事を伝えているのではないだろうか。

今朝は、主の聖餐が持たれる。ここで使われるパンと葡萄(酒)は、十字架で私を死から救う為に砕かれた御体(「私は命のパンである」)と、私の罪を洗い聖めて赦す為に流された血潮(「わたしは葡萄の木」)を表すものであるが、ユダヤ人にとって「麦」は冬の代名詞であり、「葡萄」は夏の代名詞であって、主の命と恵みは一年を通して途切れることなく溢れている事を伝える、と教えてくれた。また、呪いであり恥でしかなかった十字架刑。発掘された当時の骨壺にはどれも十字の印が刻まれていた。主はまさに呪いを祝福に、死を命に変えて下さったのである。先週、告別式が持たれた米山姉の棺の上にも十字架の花が置かれた。天で共に主の食卓に着く日を思いながら、今朝、主の麦と葡萄なる永遠の聖餐に与ろうではないか。