【横浜カルバリーチャペル】 天の窓
     
2019年7月21日

「 砂の器、土の器 」

今日、私達はいつも5階で日曜学校に参加している子供達と一緒に礼拝する。ことわざで「親の背を見て子は育つ」とか「子は親を映す鏡」と言われるが、まさにその通りである。しかし、うちの子供達にどんな親の姿が映っているかと思えば、恐ろしくて鏡が見られなくなってしまう。一方、この教会の日曜学校の先生方はまことに立派である。日曜学校(子供礼拝)は、第2礼拝と同時間の11時に開かれるので、先生方は毎週、まず自ら9時の第1礼拝で主を礼拝し、それから奉仕に行かれるのである。子供達が暗記している「十戒」を今日も一緒に唱えるが、主と安息日(礼拝)を第1とせよ、という神の言葉を、その身を持って子供達に見せて下さっているのである!

以前、CGNTVでお馴染みのハワイ・ニューホープ教会ウェイン・コデイロ牧師がこんな話をされていた。「ある日、ビーチを歩いていると、何と、ゾウやキリンやライオンが歩いていた!驚いて後ろから近付くと、砂浜に人の足跡が残っていて、中には人が入っている事がすぐに分かった」。

親といえ、教会学校教師といえ、牧師といえ、大人も子供と同様に弱い存在である。しかし、たとえ私達がゾウやキリンやライオンのようであっても、大切なのは私達の内におられる御方であって、砂浜に残されて行く私達の足跡は、私のものではなく「キリストの足跡」なのである。

松本清張、渾身の作「砂の器」。それは、一瞬で波に飲まれ跡形もなく消え行くはかない人生、それ故に何も入れることのできない器、ではないのである!私達、人は自分の手で作る「砂の器」ではなく、神の手によって作られた「土の器」であって、その中にキリストなる最高の宝を有するが故に、たとえ、波に打たれ飲まれ失われて行ったとしても、そこにある主の足跡だけは消えないのである。

「しかし私たちは、この宝を土の器の中に持っている。
その測り知れない力は神のものであって、
私たちから出たものでないことが、あらわれるためである」
コリント人への第二の手紙 4章7節